10th 馬車と体、心の揺れ
3日は早いものだった。
宿屋の仕事が忙しかったせいもあるのか、ある意味では慣れ親しんだ海賊家業よりも走り、笑顔を作り、手がふやけるほど水を触って、それはある種の嵐と言っても過言ではないだろう。
しかし、過ぎてしまえば辛い思い出というのは同時に楽しいもので、そこから離れたら寂しさというものがわき出てくるものである。
少なくともルーラシアとコルトの2人はそう感じていた。
馬車の規則的な揺れでさえ、その寂しさを紛らわすことが出来ず、もう見えない町がさらに遠ざかっていくのが分かる。
彼女たちを含めても5人に満たない小さく簡素な客車は、申し訳程度の風を通し、振動と共に前進していることを証明していた。
そんな中、ルーラシアは一人黙り込んで流れる景色へと視点を固着させていた。
木々の緑と葉の続く茂み、そこに馬が上げる砂煙がかすかに混じる。しかし彼女は視線をほとんど外すことなく馬車の側面側の景色を眺め続けている。
コルトも彼女と一緒になって景色を眺めることに没頭していたりもしたのだが、1時間を超えてきた頃には飽きが回ってきて、背もたれに体を預けてうとうとと惰眠を貪る準備に入ったところだ。
船よりは揺れない、いや揺れていない手前、睡眠を取る時間と余裕くらいはあるという彼なりの分析の結果だった。
そして彼が意識を飛ばす寸前くらいまでまどろんだ頃、不意に小さく手が引かれる。彼はびくりと目を覚ました。
「……どうかしたの?」
眠さを前面に出しながらコルトは手を引いてきた張本人であるルーラシアに尋ねる。
するとルーラシアはコルトの方へ顔を向け、その表情を見たコルトはとたんに苦い顔に変わる。
彼女がどうしたか、それは一目瞭然だった。
「酔ってたり、……するよね」
コルトは彼女に尋ねる。するとルーラシアは静かに頷いた。
髪の蒼さが顔の青さを多少なりとも誤魔化せているのは、それこそ種族ならではのものであるのだろうが、喉を無理矢理押さえつけている表情は、明らかに誤魔化せないほどの息苦しさを辺りに訴えていた。
どうやら人というものは日頃より酔いにくい環境下でも酔いを起こすことが出来るらしい。
「どのくらい耐えられそう?」
コルトは尋ねつつルーラシアの背中をさすってやる。すると弱々しくその手が払われた。
「……止めて。ホントに吐きそう」
「なるほど。……下の方は向いてない方がいいよ。もっと酔うから」
「うん……」
彼女は消え入るように弱々しくコルトに返し、コルトは彼女に、ついさっきまで布団代わりにまとっていたマントをそっと掛けてやった。するとルーラシアは先ほどのコルトのように、背もたれに体を預けた。
船はもっと揺れるのになぁ。コルトはそう考察しながら腕を組み、頭を捻った。
すると、またしてもルーラシアの声が彼の耳に届く。
「……ねぇコルト。寄りかかってていい、かしら?」
コルトが答える間もなく、ルーラシアは体をコルトに寄せてきた。
いつも力強さや豪快さを見せつけていた彼女の肌は、マント越しでも分かるくらいの温もりをたたえていて、コルトはほんの少しだけ顔を赤らめる。
また、彼は同時に早まった鼓動を隠すのに必死だったりもした。
胸などの部分は触れていないものの、彼女の息づかいが直接肌に伝わってくるのだ。海賊時代にずっと憧れていた“アネゴ”に。蒼の髪が魅力的な一人の少女に。
そして彼が自身の呼吸と格闘を開始してしばらくすると、微かではあるが横から寝息が聞こえた。
彼はひとまず胸をなで下ろす。呼吸はまだ乱れているようだったが、先程と比べれば良くなっているようだった。
しかし緊張のせいだろうか、彼はしばらく寝ることが出来なかった。
馬車は暗くなったら進めない。それは誰もが知る暗黙のルールだった。
出発地での街から目的地のサムエルまでは馬車で2日ほどかかる日程なので、2つの夜をまたぐことになるのは必定であった。
その中で、一時的ではあるが馬車に乗り合わせる者達は時間を共にする仲間となることも必定であった。
しかし、その構成員が寝静まると独立した空間も切り取られることがある。それが今だった。
夕闇の中に揺らめく焚き火が1つの人影と、1つの爬虫類らしき影を夜に滲ませている。それはルーラシアとラヴィのものだった。
「アネゴ、もう寝た方がいいって」
「……まだいいわ」
ルーラシアはラヴィに生返事を返し、ぼーっと火を眺め続けている。傍目では生気がないというか、黄昏れているようにも見えなくもない。しかしすすけた蒼の髪が彼女の心を表現しているように、彼女の心にも闇が訪れているようでもあった。
時々唸ることもラヴィの気を引きずる。少なくともルーラシアの精神状態が安定していないのは明かである。
そんなルーラシアにラヴィは少し細まった視線を投げかけた。
「いいって言うけどさ、何かアネゴ変だよ」
「別に変じゃないわよ」
ひどく淡泊に彼女は返す。しかしその淡泊さは自分自身が変だと主張しているようなものだ。
ルーラシアは元気という文字がつきまとうようなさばさばとした性質を持ち歩いているのだから。
続けて彼女は青い息をこぼした。
炎が揺れる。
そしてルーラシアはようやく火から視線を外し、ラヴィの方に顔を向けた。
「……ねぇラヴィ」
ルーラシアは口を動かす。しっとりとした声は、いつもの彼女にはない大人しいもので、ラヴィは心中で身構え、呼吸をただす。
彼女は続ける。
「……あたし、コルトに頼りすぎてないかしら」
仮にも“アネゴ”だったのに。そう付け加えて漏らす。
それにラヴィが返した言葉は、
「……へ?」
あからさまな疑問だった。むしろ呆けているというのが正しい。そしてルーラシアが頷いて、彼の疑問に返答すると、彼はたっぷり5秒ほど考え込んで、尋ねた。
「アネゴ、本当に大丈夫?」
「どーゆー意味よ」
少しむっとしながら彼女は返す。するとラヴィはまた答えた。
「アネゴってそういうこと気にする性分じゃないと思うんだけど?」
「うっ……」
ルーラシアは容易に言葉に詰まった。どうやらそれについては自覚しているらしい。
体育座りで炎の方へと体が向いているにもかかわらず、手の指をもじもじといじくり回しているのはその証拠だろう。
それを見て、ラヴィはぷっと小さく噴きだした。
「な、何が可笑しいのよ?」
ルーラシアは問う。するとラヴィはくすくすと小さな笑いを口からこぼしつつ、小声で返答する。
「……アネゴが意外と乙女してるっていうこと、かな」
「乙女?」
「気になるんでしょ?」
「……」
敢えて何がと言わないことが、ルーラシアにとってとても意地悪なものに聞こえた。ラヴィは自分をからかっているのだ。
だからそれが分かってはいるからこそ、彼女は答えることはなかった。
その代わりとして、小さくではあるが、心の中にくすぶるものがあった。
「ラヴィ」
「ん? ……っていでででででっ!!」
いつの間にか、むしろいつ掴んだのか、ルーラシアの手にはラヴィの頭が鷲掴みにされていた。
痛みに耐えかねているのか、ラヴィが暴れてはいるのだが、彼の頭はルーラシアの手から放される気配がせず、彼女はそのまま自分の手をラヴィごと自身の顔に近づける。
そのラヴィの目に映っていたのは、硬くピリピリとしたルーラシアの笑顔だった。
「おかげさまで元気になれたわ。……それで、あんたにお礼をしたいんだけど、いいかしら?」
ラヴィの顔に蒼白が差す。首を振るおうとしても、がっちりホールドされているその部分は頑として動かず、口がかろうじて動く程度だ。
「……いやいや、オイラとしては気持ちだけ受け取りたく――」
「この無粋ヤローっ!」
ルーラシアの声と共に、鈍い音を立ててラヴィは地面と強烈な接吻をすることとなった。ぴくぴくと脈打つラヴィの姿は、その一撃のただならない威力をこれでもかというほどよく表現している。
それを尻目に、ルーラシアは静かに立ち上がって大きくあくびをかますと、何事もなかったかのように馬車へと歩を進めていった。
ラヴィ以外誰も残らない焚き火のそばで、夜がいびつに笑みでも漏らしているかのように、ラヴィは痛みにうめくことしかできず、時間は非情に彼を朝へと追いやっていくのだった。