4th 殴打と狭路を抜けて


 雨の香りがかすかに残る泥の上を、鋼鉄の四肢が踏み荒らしていく。
 地面をえぐり、泥を豪快に跳ね上げるその姿はまるで巨大な蟹のようで、まっすぐに進むことに違和感を感じさせる。
 ただしかし、ぬかるみがあるせいか速度はあまりなく、一歩一歩の動作がやや緩慢であった。
 そんなトロイの内部で、外の景色を眺めつつアリシアは小さく溜息をこぼす。
「ったく、何ふさぎ込んでやがる」
 ライナスは怪訝そうな顔でアリシアを見下ろしつつ言う。すると、アリシアはライナスの方へと顔を向ける。
 ライナス自身は別段不機嫌そうではなく、むしろ心配しているというのが正しいだろう。
 それはアリシア自身にも分かっていた。彼は不器用なのだと。
「お前はあんまし難しく考えないでいいんだよ。機械なんだろ?」
 ライナスは冗談臭くアリシアの頭を乱暴に撫でた。するとアリシアはいきなり慌ただしく小さい声を上げて、彼女の右腕がうなりを上げて動き、アリシアはとっさに目をぎゅっと閉じた。
 鈍い、硬い金属がぶつかる音が響く。そして、
「は、ははは。危ねェ危ねェ……」
 彼女が目を開けると、ライナスが円盾でアリシアの右拳を受け止めているのが目にとまった。
 しかし、彼の軽めの口調とは裏腹に、盾を持った左手はブルブルと震え、同時に盾も大きく歪んでいる。それはアリシアの拳がどれだけの力を出せるかをよく表現している。
「あ、す、すいません! 大丈夫ですか?」
「お〜痛ってぇ。……相変わらず重い拳だぜ」
 アリシアはライナスの盾に突き刺さった拳を引き、頭を下げる。からんと乾いた鉄の音が立ち、ライナスの盾は床に転がった。大きくひしゃげたそれは、一目見て使い物にならないのは誰の目にも明らかである。
「……これ、円かったよなぁ」
 ライナスは盾を拾い上げて言う。盾は現在、いびつに歪んだ楕円形――に見えるだけまだいいといった状況である。使い込んだ鍋の蓋の方がよほど円形に近いといって差し支えはないだろう。
「すいません。私のせい――」
「お前は悪くねぇさ」
 ライナスは物憂げに盾を眺めつつ言い、息をつきつつ左手をさすったり、ぶんぶんと振ったりしていた。盾越しとはいえ、ダメージは小さくなかったらしい。
「ただ、気に入ってはいたんだけどな、これ」
 目を細め、ライナスはアリシアへと乾ききった笑いを漏らし、背中をぽんぽんと冗談臭く叩き、すぐに右側へと体を滑らせた。直後、アリシアの拳が再度空気を裂く。しかしライナスにはかすりもしなかった。
 するとライナスはまた小さくにやける。
「まぁ、当たらなければどうって事もないんだけどな」
「いや、そういう状況じゃ無いと思うんですけど……」
 ライナスは反省していないようだ。むしろ反射神経を鍛える訓練とでも思っているのか、平和なものだ。
 ライナスはひしゃげた盾を拾い上げて、埃を払うようにその表面を軽く叩いた。乾いた鉄を撫でるとき特有のザラザラとした小さい音がアリシアにもよく聞こえた。そのままライナスは言う。
「ま、小娘が気負うことなんかねぇんだ。ついでに機械なんだしな」
 他人が聞いたら失礼極まりない言葉である。しかし、それを聞いたアリシアの顔にあったのは、ささやかな笑顔だった。
 いやむしろ、くすくすと口から笑いをこぼしているというのが正しいだろう。それは彼女に残る幼さから考えれば少々不似合いな姿ではあるものの、大人しい彼女の気性を考えると不似合いではなく、むしろ似合っている。
 それに、ライナスは“機械”という言葉を悪い意味で使っているのではない。その言葉の意味は、“お前は大人の話を知らなくていい”や、“気にするな”という言葉に収束してしまう。それをアリシアも何となくは分かっていた。
 だから、彼女は笑ったのだ。不器用なライナスに。
 そして、ライナスの方も彼女の笑みを気にすることなく、別室でトロイを操縦しているルルドに大声で尋ねた。
「ルルド〜、ルート上に町ってあったか?」
 いかにも軽い、いつもと変わらない口調だ。それにルルドは大きく返す。
「ありますよ〜。寄りますかぁ?」
「頼む! 盾を新調しなきゃなんねぇからな」
「わかりましたぁ!」
 大きな声での会話を終えると、またトロイは泥を跳ね上げて走った。



 フンリドート。トロイが立ち寄ったその町はそう呼ばれていた。
 死地と呼ばれるほど物が育ちにくい場所で、その原因としては過去にあった戦が原因といわれていて、この町の半分近くが廃屋、もしくはそれに準ずる建物が占めていて、まさに荒れ果てた町というのが正しいだろう。
 そのため、この町では傭兵や鍛冶、酒場などが多い。それがルルドの語るこの町だった。
 そして、トロイが現在静止しているところも、この町でいう廃屋地帯なのだという。
「そんなにきょろきょろしないで下さいよ。魔物が襲ってきたりするわけじゃないんですから」
「それはそうなんですけど……」
 アリシアは周囲に視線を走らせざるを得なかった。
 そこにあるのは、柱ごと屋根に押しつぶされた茶色の家屋だった物や、枯れ木のように立ちすくむ黒こげの柱など、かつては人の息吹があったらしい建物のなれの果てだ。火に焼かれ、雨に打たれ、風にえぐられ、命の息吹を吐き出しきってしまったものが、そこには立ち並んでいる。
 これが、戦いなのだろうか。
 アリシアは自分に問いかけて、口をつぐんだ。そこにルルドは言う。
「まぁ、気になるもの無理はないですね。あの街にはこんなものはありませんでしたから」
「そう、ですね」
 アリシアは弱々しく答え、ルルドの右手にある盾をちらりと見てみた。そして、自分の右手を見てみる。そこには中身がよく分からない、重いものが詰まっている袋がある。用途ももちろん不明だ。
「ルルドさん、これってどうするんですか?」
 アリシアは袋を胸の前まで持ち上げ、尋ねてみる。すると、
「盾の材料です。これを打ち直すだけじゃあ少々不安ですからね」
 ルルドはそう答え、きょろきょろと、ついさっきのアリシアのように辺りを見回して、廃屋が織りなす路地の裏へ足を踏み入れた。
「ルルドさん?」
「近道です」
 ルルドはそう言いつつ狭い路地を慣れた足つきで進んでいく。
 それを追おうとアリシアも路地に足を踏み入れ、ガリガリと何かがすり減る音を耳にした。
 とっさに足へと視線を落とす。すると、路地の壁面を4本の足が削っているのが目に入った。もし足が2本だったら引っかかるはずのないものだったが、4本では多少無理があるらしい。
 4本足は2本足と比較すると、安定性にこそ大きく長けるものの、占める空間が多くなるのは必然的である。
 しかも彼女の足は人のそれのように細くすらりとしたものからは遠い。膝から上は細い円柱のような形ではあるが、膝下はとても太い人の脚部のようであり、指は左右前方と後方に1本ずつ。ある意味では鳥の足のようである。なので、足の幅が広がる要素を多く持つのである。
 ルルドの背中が、少しずつ彼女から離れていく。普通の道では大した速さじゃないだろう。でも狭い路地ではそれが早く見えた。
 焦りが自然と浮かぶ。自分一人、ここにおいて行かれるんじゃないか、と。
 実際、今ルルドを見失ったら、廃屋の群れの中でひとりぼっちだ。ライナスは別行動で買い出しに行っている今、はぐれたら誰も見つけてくれないのだから。
 だから、彼女は急いだ。足がすれる音を無視して、狭い路地を走る。
 それはお世辞にも走っているということを疑うほどの速度であるが、彼女は必死だった。
 背の放熱翼が壁を削っても気にせず、強引に進む。いや、それは意地といってもいいかもしれない。
 路地の先に見えるのはルルドの背中。それだけだった。
 進んでいるのか分からない。でも、ただ彼女は追っていた。息を切らし、跳ね上がった泥にまみれ、焦げついた色が服についても足は止まらなかった。
「ルルドさん!」
「はい? どうかしましたか?」
 アリシアがルルドを呼ぶと、ルルドは平然と振り返り、彼女を見やった。そして言う。
「おやおや、ひどく汚れてるじゃないですか。これからもっと汚れる予定なんですがね」
「え?」
 子を見る親のような、そんな笑みを浮かべてルルドにアリシアは疑問符を浮かべ、自分の体を見やった。
 それは、黒く煤やホコリにまみれた汚い姿だ。
「……汚いですね」
「ええ。……すいません、狭かったでしょう?」
「はい」
 アリシアはルルドの質問に即刻肯定を返し、大きく頷いた。
 そんな彼女にルルドはまた続けた。
「もうすぐここを抜けますので、それまで我慢をお願いします」
「……しなきゃいけませんよね」
 アリシアは背中の放熱翼から盛大に白煙を吐き出しつつ、肩を落とした。
 しかし、そうしてもどうもならないことを知ったのか、彼女はまた路地を進み始めた。
 近くに鉄工所でもあるのか、油臭さと鉄の臭さが彼女の鼻に入り始める。それは、不思議とあまり不愉快ではなかった。
「あと5歩くらいですよ。頑張って下さい」
「はい!」
 狭い路地を抜け出たルルドは路地に顔を覗かせ、アリシアは気合いを入れる。
 ガリガリと足が路地の壁面を削り、狭さから解放されることを望み、願いはすぐに成就する。
「ふぅ」
 アリシアは大きく息をつき、それでも足りなかったのか、背の翼からも白煙が吐き出された。
 開放感をうれしがっているのは誰の目にも明らかだった。
 それを見てルルドは小さく笑みを口からこぼし、ゆっくりと目的の場所へと歩を進めていく。
 彼が目指すのはアリシアの右前方。小さい鉄工所だった。
「さ、こっちです。ついてきて下さい」
 ルルドは優しく彼女に告げ、鉄工所へと足を踏み入れていき、アリシアも慌ててそれを追う。
 未知の世界であるそこだが、彼女は別段不安を感じていなかった。
 むしろ、狭い世界を踏破した充実感の方が上回っているらしかった。


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