7th あたしをそう呼ばないで


 海からの潮風が薄くなり、見渡す限り木々の緑が大地を覆い尽くす中、その緑の中で葉をしたたかに揺らしながら1匹のトカゲが無尽にかけずり回っている。
 その口元には橙色をした木の実が咥えられていて、よく熟れている証拠だろう、輝くように日の光を受けてつやつやとした印象を与える。
 そしてそのトカゲを追う数匹の猿がいた。白みがかった茶色の体毛と真っ赤な目が印象に残る手の長い猿で、それぞれが唸るように憤りを口にしていた。
(しつこい奴らだなぁ。ああいうタイプはメスに嫌われるんだけどねぇ)
 トカゲは心で小さくもらし、太い頑丈な枝を蹴る。そして一瞬だけ空いた手で口から木の実をとって、森の木々の上へと無理な体勢ながら思い切り放り投げる。
「そぉい!!」
 かけ声と共に宙を舞った木の実は木々の間を突き抜けて緑の上へと身を躍らせた。そしてトカゲは身を翻し、ぐにゃりとまるでこねられている最中の泥のように柔軟な変形を決め込み、鳥のような姿になると、上にそびえる木の枝を気にすることなく緑の群れへと突っ込んでいく。そして木の実を飛び上がりながらまた口にくわえて、そのままさらなる上昇をかけて緑の海から脱出する。
 数回羽ばたけばもう猿など敵ではない。猿はどうあがいても空を飛べないのだ。
「……アネゴ達って猿の駆除できるかなァ」
 ついさっきまでトカゲの姿をしていた黒い鳥は溜息混じりにもらしながら首を左右に振り、帰るための場所を探した。
 すると、あった。緑の波がうねる中から立ち上る煙だ。この自然が作る緑とはまるきり似合わない炎の合図だ。
 鳥はすぐさまそちらへと羽ばたき、風に乗る。ちょうどその方向への風は順風だ。
「ま、生きるためなら何でもやりそうだから怖いけど」
 鳥は小さく呟き、その煙が上る根元へと進路をとった。




「アネゴ、機嫌直してくだせぇ」
「嫌」
 ルーラシアは不機嫌そうにコルトからそっぽを向き、口を尖らせる。
 彼女は今朝からこの様子だ。何か悪いものを食べたわけでもなく、体の不調も訴えていない。食料は尽きかけているものの、不機嫌になる理由はコルトには全く見あたらなかった。
「食料はラヴィの奴が何とかしますから、もうチョイと待っててくれれば――」
「違うわよ。お腹は空いてるけど、そんなんじゃイライラはしないわよ」
「へ、へぇ……」
 コルトは困りながら息をこぼし、焚かれている火を長い棒で弄くる。
 下手にルーラシアを刺激するのは得策ではない。それをコルトは日頃の経験から良く理解していた。
 だからといって解決法が全く分からない。現状理解も出来ていないのに解決するというのは物理的に無理があることなのだ。
「せめて川くらいあれば助かるんですがねぇ」
「助かるわよ。でもそれ以前にハデに気に食わないことがあるけど」
「……なんですかい? 朝から機嫌悪そうでやすけど……」
 コルトは心中で脂汗を流しつつ尋ねてみる。本能的な恐怖はあるが、このままルーラシアの怒りをため込ませた方がさらなる恐怖になることを本能的に学んでいるらしい。
 そんなコルトにルーラシアは不機嫌そうなまま尋ねる。
「ずっと気になってたけど、あんた無理してるでしょ」
「へ? いやいやそんなこと――」
「あるから言ってんの。誤魔化そうとしたって無駄よ」
「…………」
 コルトを見るルーラシアの視線はまさに肉食獣のそれと似ていた。逃れがたい、また心を見透かされているように感じさせる、少し憤りの入った視線。「抵抗するな」と目だけで語っているのは明らかだ。
 強制。そんな無慈悲な言葉がコルトの脳裏に浮かび、ルーラシアが微笑むのが程なく目に入る。同時に小さい怒りのようなものが肥大化していくのも。
 しかしコルトにも口に出せないことがある。むしろそれは問題だらけだ。特に少し前の、旅立つ前では。
「……アネゴ、あっしは無理してないさ」
「そう。あたしとしては別に構わないんだけど」
「何がでやすか?」
「とぼけないでよ。……実はそういう言葉遣いにまだ慣れないんでしょ」
「…………」
「あたしが分かんないとでも思った?」
 黙り込んだコルトへ追撃という具合にルーラシアが尋ねると、コルトは「参ったな」と小さく呟き、待たしても口を軽くつぐむ。どうやらコルトの全面的な負けらしい。
 そんなコルトにルーラシアは小さく溜息をこぼし、やれやれとばかりに言った。
「アネゴとかそういう立場なんてどうでもいいのよ。ただタメ口で話してちょうだい。それにいつまでもアネゴって言うの、止めて欲しいわ。呼ぶんならルーって呼んでよ」
「…………は?」
 今なんて言いましたとばかりに目を丸くしてコルトはルーラシアの言葉の意味を混乱しながらも必至で追い回しているようだった。
「だから、あたしをアネ――」
「アッネゴぉ、帰ったよぉぉっ!」
 無情にもルーラシアの言葉は空中から飛来した黒い鳥によって見事に叩き切られた。その足には橙色の木の実がつやつやと光っていて、ほどよい熟し具合なのが見て取れるようだ。
「……ラヴィ?」
「あら、おかえり」
「ただいま。いやぁ、酷い目にあった」
 ラヴィは小さく咳払いをして身を返し、体に対しては大きい翼を持ったトカゲへと姿を変えて、木の実を持ち替える。
 と、ルーラシアとコルトへ何回か視線を行き来させて、控えめに尋ねた。
「あれ? アネゴ、機嫌が直ってない?」
「直りかけたのがそうじゃなくなったわ。どこぞのトカゲのせいでね」
 ルーラシアはラヴィへじっとりとした目つきを向けながら言う。どこからどう見ても非難にしか見えない態度だが、ラヴィはそんなことをあまり気にしてはいないようだ。
「ほうほう、アネゴは爬虫類が苦手なんだね。後学の参考にでも……」
「すんな!」
 ルーラシアが言うのとほぼ同時にラヴィの頭部にルーラシアの軽いツッコミが入り、ラヴィは軽く体勢を崩した。
 そしてルーラシアは今度は盛大に溜息をこぼし、ばつが悪そうに言う。
「……だからコルト。あたしをルーって呼んでもいいのよ。むしろ呼んでもらった方がありがたいわね。そんなぎこちない変な言葉遣いなんてさっさと捨てりゃあいいのよ」
 最後の方はほとんど吐き捨てるような乱暴な物言いだ。しかし彼女の海賊としての生活を考えれば別に不似合いな言葉でなく、また、コルトにとってはありがたい言葉だったのだろう。彼の表情の中に小さい安堵が見て取れるようだった。
「じゃあ、遠慮無く“俺”とか言っていいかな。実を言うとアネゴの言うとおりなんだよなぁ」
 コルトは大きく息を吐きながら小さく笑う。窮屈な篭から解放された魚、とまでは行かないものの、羽を伸ばした鳥には似たものを感じられるだろう。そんな彼にルーラシアはからかうように尋ねる。
「あんた、実は海賊向きじゃなかったんじゃないかしら?」
「かもね。俺、島の人間じゃなかったし」
「え? コルトさんって島の人じゃないの?」
 小さく笑い合うルーラシアとコルトの2人にラヴィが尋ねると、2人は揃って頷いた。
「俺、旅してるところで溺れちゃったのをあそこに助けられてさ。それでいつの間にかあの一員ということになってたんだ。まぁ、海賊っていうのも悪い気がしなかったし、しかも行き場がなかったしで、路銀もなかったからね」
 情けなさを漂わせつつコルトは言う。その姿は海賊の中での彼の姿とは違い、哀愁を漂わせる旅人みたいだ。
「じゃあ、アネゴの旅についてきたのって……」
 ラヴィは恐る恐るコルトに尋ねる。するとコルトは首を振った。
「オカシラはアネゴ――いや、ルーが心配でたまらないんだよ。でもオカシラが抜けるとあの海賊は抜け殻になっちゃうだろ? でも俺ならそういう心配はない。ただちょっとオカシラ達が寂しく思う――」
 そう言いかけてコルトが口を止め、恐る恐るルーラシアの方へと視線を動かすと、ちょうどまた怒りに燃えた彼女の目と彼の目が合う。
「……どーゆー事? あんたが抜けて仕事的にあんまり困らないとでも言うつもりかしら?」
「ううん。ただ他の誰かが抜けるよりマシでしょ。それに、“アネゴの手伝い”は俺にしかできないと思ったから」
 まぁ、それは勝手に思ってることだけどさ。とコルトが苦笑混じりに言う。すると、それを聞いたルーラシアはあごに手を当てて一瞬考え込み、少し頭を捻るとほんのりと頬を赤らめた。
「いきなり人を口説くのは感心しないわ」
「うん。キザだよそれは」
 ラヴィもルーラシアの意見に賛同したようで、短い腕を器用に組みつつ感慨深そうに目を閉じつつ何度も頷く。
 ただ、それを言った張本人であるコルトは彼女たちの反応が予想外といった様子で頭の上にクエスチョンマークを浮かべて首をひねった。
「俺、なんか変なこと言ったかな。口説いたつもりは全くないんだけど……」
 そう呟くコルトに2つの重い溜息がこぼされ、彼がうなだれるとルーラシアは小さく笑みを口元に浮かべた。
 それと同時に心中で小さく呟く。
 嬉しいこと言ってくれるじゃないの、この天然野郎。と。
 
 彼女の機嫌はもうすっかり直っているようだった。
 
 
 


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